その男、武千代

33歳、独身、借りぐらしの崖っぷち。

「ジャンボンハムレタスサンド」の「ジャンボンハム」とは一体

私は33歳、独身、一人暮らしのため、残念ながら朝ごはんを作ってくれる人がいない。

なので朝は少し早く起きて職場の近くの喫茶店で朝食を取るのがここ数年の日課になっている。

 

半年程前に異動があり、そこからは毎朝、職場近くの「エクセルシオールカフェ」で朝食を済ませている。

 

エクセルシオールカフェ」のモーニングは4種類あり、

・たっぷりタマゴサラダサンド

・ジャンボンハムレタスサンド

・クロックムッシュ

・厚切りフレンチトースト

で構成されている。

 

この4つのメニューの中から私は毎朝「ジャンボンハムレタスサンド」を食している。

 

一応、「ジャンボンハムレタスサンド」に落ち着くまでに「たっぷりタマゴサラダサンド」(これは時期によってメニューが変わるはず)も「クロックムッシュ」も食してみて、最終的に「ジャンボンハムレタスサンド」に落ち着いた。

 

「厚切りフレンチトースト」だけは今まで食していない。三十路を過ぎたおっさんが朝からフレンチトーストを食べるのはいささかはばかられる。

でも美味しそうだ、しかも普通のフレンチトーストじゃない、「厚切り」だ。なんなら「はちみつ」も付いてくる。美味しいに決まってる。

でも頼まない、三十路過ぎたおっさんがフレンチトーストを美味しそうに頬張っている姿は朝から刺激が強すぎる。昼間だって、夜だって刺激が強い。

だから私はフレンチトーストを頼まない、これは大人のマナーだ。

 

三十路を過ぎたおっさんがどうしてもフレンチトーストが食べたかったらどうしたらいいのか。

 

 

 

 

家で、自分で作って、食え。

 

 

 

 

先日、いつものようにカフェの店員さんに「ジャンボンハムレタスサンド」を注文した時にふと、「ジャンボンハム」とは何だ?、と思いその日の朝食は「ジャンボンハム」についての思索に耽っていた。

 

「ジャンボンハム」

 

初めて見た時は「ジャンボハム」かと思ったが違う、「ジャンボンハム」だ。33年生きてきて初めて見た単語だった。

 

「ジャンボンハム」

 

最初は「ジャンボンハム」と言う自分に気恥ずかしさを感じていたが、今はもうなんとも思わない。自然に「ジャンボンハム」と店員さんに言うことが出来る。むしろ半年前に比べたら発音良く「ジャンボンハム」と言えている自信すらある。

 

「ジャンボンハム」

 

ただ、私は約半年に渡ってほぼ毎日のように「ジャンボンハム」というフレーズを発していたが、「ジャンボンハム」がどういったハムなのか知らない。なので毎日食べている「ジャンボンハムレタスサンド」に挟んであるハムが本当に「ジャンボンハム」なのかどうかは私にはわからない。

 

「ジャンボンハム」

 

もしも「ジャンボンハムレタスサンド」のハムを普通の「ロースハム」にすり替えられていて、気づかず毎日食べている私の事を「あの人毎朝「ジャンボンハムレタスサンド」頼んでるけどホントはただの「ロースハムレタスサンド」食べてるのよ笑。しかも半年間ずっと気付かないのよ笑。」と店員さんの間で笑い者になっているかもしれない。さすがにそれは卑怯だと思う。

 

「ジャンボンハム」

 

たまにスーパーで買い物をすることがあるが、「ジャンボンハム」という商品は見たことがない。むしろ「エクセルシオールカフェ」以外では見たことがない。こうなると「ジャンボンハム」が実在するのかも怪しく感じる。もしかすると「成城石井」、「紀伊国屋」のような高級スーパーにはあるかも知れない。しかし、私の家の近所にはどちらのスーパーもない。あるのは「西友」と「イオン」だけだ。

 

「ジャンボンハム」

 

果たして実在するのか「ジャンボンハム」。私は得体の知れない「ハム」、すなわち「ジャンボンハム」が挟んであるサンドイッチをここ半年間、毎日欠かさず食べている。これは恐ろしい事ではないか。自分が食べている「ハム」のことをよくわかっていないのにも関わらず毎日食べ続けている、のだ。無関心の極みだ。毎日食べているのに、だ。

 

「ジャンボンハム」

 

「概念としてのハム」があり、「実態としてのハム」がある。普段、我々が目にするのは「実態としてのハム」であり決して「概念としてのハム」ではない。スーパーで販売されている「ハム」は「実態としてのハム」であることに異論はないだろう。では「概念としてのハム」とは一体何なのか。その答えの一つがもしかすると「ジャンボンハム」なのではないかと私は考える。

 

「ジャンボンハム」

 

「ジャンボンハム」は「概念」なのである。そして私は「概念としてのハム」である「ジャンボンハム」が挟んである「ジャンボンハムレタスサンド」を毎朝食べている。その「概念としてのジャンボンハム」を挟む、「パン」と「レタス」は「実態としてのパン」と「実態としてのレタス」である。そこにも異論はないと思う。何故なら「概念としてのジャンボンハム」を「概念としてのパン」や「概念としてのレタス」では挟めないからだ。もしも、この世に「全てが概念としてのジャンボンハムレタスサンド」があるとしたら、それはお皿に何も乗っていないのと同義だ。

 

「ジャンボンハム」

 

ここまで書いてきて私は薄々気付いている。

 

早くググればいいのだ、「ジャンボンハム」を。

 

そうすれば「ジャンボンハム」の写真から「ジャンボンハム」がどうやって作られるかまできっと全てGoogleが教えてくれる。しかし、私はそれを良しとしない。便利になり過ぎた世の中で、人は自分で何かを考えるということを放棄してしまってはいないか。私は警鐘を鳴らしたい。

 

みんなが考える「ジャンボンハム」があったっていい。100人100通りの「ジャンボンハム」があったっていいじゃないか。私は強くそう思う。そして筆を置こうと思う。

 

 

 

みんなの心の中に「ジャンボンハム」はいます。

 

 

 

 

 

 

一度は食べたい世界のハム|日本ハム株式会社

 

フランス語で「ハム」だったみたいです。